2010年12月20日

かつての苦労に意味があったのだろうか?


最近、元教会員と思われる方からコメントがありました。
失礼ではありますが、引用させて頂きます。



今の様子はどうなってるのかな?
とあちこちのブログなどをさまよい、ここにたどり着きました。
50周年ですか・・・。自分が活動していたころは、
30周年過ぎたあたりだったでしょうか。

徹夜で街の中を歩いたり、販売活動などもしたりして・・・。
今の規律はだいぶ穏やかになってるような気がします。
うらやましい限りです(笑)。

規律厳しいあの頃にいた自分らの当時のそんな歩みは
今の皆さん方に、いい結果をもたらしたものであった
のだろうか、無意味な活動であったのだろうか
ただその結論だけを求めたくてさまよっていた
次第であります。



私もかつては、独身者でしたので、ホームに入って、
この方と同じような生活をしていました。
昼夜を分かたず活動をしましたので、
歩きながら寝てしまって、よく電柱にぶつかったなぁ…。
靴下に穴が開いても、買い替えるお金がなくて、
自分で縫ったものです。
貧しかったけど、教会の兄弟姉妹が本当に慕わしくて、
当時は不思議な連帯感がありました。
今から思えば、すべて懐かしい思い出です。

今は家庭でみ旨を歩む時代になって、
各家庭に任される部分が増えたので、
規律という面では、かつてのような苦労は少なくなりました。
きちんと3食食べて、夜もちゃんと寝てますし。

では、当時の苦労が、果たして意味があったのか?と
問われれば、やはり「あった」と私は思います。
私自身を振り返っても、当時苦労して歩んでいる中で、
内的に復帰できた世界があって、今の自分があるのは確かです。

ちょうど昨日の礼拝で、教会長がこんな事を言われていました。


天からくるみ旨は、外的な摂理の側面と、
内的な復帰摂理の側面があります。
お父様のされる「勝利宣布」の数々は、目に見えない
内的な世界の話で、我々教会員でさえなかなか理解できず、
付いてゆけない部分が多いが、
霊界と神様の事はメシアのみがご存知なので、
間違いなく意味があることだと。
メシアと共に、教会員が成した苦労や精誠は、間違いなく
神様の復帰摂理の土台となって、今日がある、
と言われていました。

かつて教会で苦労しながらも、事情を抱えて離れた人たちも、
皆安心して帰って来られるような教会になれるよう、
我々現役信者が努力しないといけない、と
教会長が力説しておられました。

私もまさにその通りと思います。

応援して下さりありがとうございます。(^0^)
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posted by kei at 11:27| 東京 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 礼拝の恩恵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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